所にもなると重みがあ

やはり、インテリは違うなあ、と。
わたしはヒステリックに感情に任せて叫ぶだけだが、五木寛之さんぐらいの大御所にもなると重みがある。
そもそも断捨離は禅の教えを用いているらしいが、仏教ではまた違う見方もある。
自分にとって良いとこ取りをしよう。

精神面を説くならわからないでもないが、、、なぜなら、こころの内面は人それぞれだから、どの教えを取り入れて肉付けしても構わない東京樓價
が、行動に移す場合は、ああしろ、こうしろ、とパターン化されたものを指図されるのは、わたしはかなり鬱陶しさを感じる。
どこからどう手をつけて良いのかわからない、だとか、具体なやり方が全くわからない、だとか、方向性や道筋を決めた上でのノウハウならまだしも、
道も決めていないのに、あるいは、違う道を選んでいるのに、こうしろ、ああしろ、は暑苦しい。


戦前生まれのおばあさんが、ゴミを溜め込むのは賛成しない。
誰がどう見てもゴミとしか思えないようなモノを捨てないで取っておくのはどうかと。
が、今は環境汚染の観点からペットボトルなどを使い捨てせずに、マイボトルやマイ箸を持ち歩き、エコ志向も広まっている。
ペットボトルや缶は分別ゴミ箱へ英國租屋
できる限り使い捨てではなく、繰り返し使い、捨てないための工夫が課題とされている。
企業も環境を考慮した上での材料に切り替える努力をしている。

と、話の流れが何やら変わってきている。
いつものことだが。

モノに詰まった思い出、モノから溢れ出る豊かな感情、モノという物理的な目の前に実在する実感で、無意識に眠っていた思いが掘り起こされる。
嫌な思い出に触れたくない場合は、捨てるとよい。
二度と見たくない、触れたくない。
次第に嫌な感情は薄まり忘却に向かうことだろう。
だが、モノが実在しようが、しなかろうが、消えない思いはある。
「モノ」で一括りには語れない場地 佈置