たいな、ほのぼの系

話は変わるが、
わたしは中学1年ぐらいから日記と小遣い帳をつけている。
自分との対話、独り言は今日に至っているわけだ乳房影像檢查
まあそれはいいとして、、、あんまり深刻なことは書いていなかったように思う。
誰々(好きな男子)と目が合った(ような気がする)、きゃー。みたいな、ほのぼの系。
親友には話していたかも知れないが、他愛ないものだ。
あとは、思い込みや自慢系。
恥ずかしくて人には言えないようなこと。(たぶん、言っていたと思われるが)
ドサッと中学からの日記帳の山を何年か前に母から手渡され、その日から1ページもめくっていない。
恐ろしくて読めるはずがない牙套

その点、蝶ブログは一応、人の目を意識しているという第1関門、映倫?フィルターを通しているので、まだマシだ。
今では年だけは十分重ねている。
わけのわからない、何のサジ加減もわからない中学生ではないので(中身はあまり変わっていないにもかかわらず)、ちょっと大人や親の目線が加わっている。

と、実は、これは長い長い前置き。
今からが、中学日記には書かなかったが、(かつて蝶ブログには書いたことがある)本日のわたしが書きたかったこと。
若い日のわたしが、薄い頭脳を捻り絞り込んで、必死で考え辿り着いた結論。
それは、なぜ、自分は生きているんだろう?という問いに対する若い日の自分なりの答え。
哲学とは程遠い、よくある、陳腐な問答ではあるが。
宇宙規模の天文学的時系列の、ほんの一瞬を生きている自分の意味を自問した。
で、出した答えは実に普通の平凡な、どこにでもあるもの。
次世代にバトンタッチする、命を繋ぐために自分はいると考えた。
結婚して子供を産もうと思った。

しかし、もし、子供が産まれなかったら?
子供がいない(産まれない)人もいる。産まない人もいる埋線鼻
その時はまた、自分が生きてきた、生きている意味を考え直して、別の答えを出していることだろう。